女教師にまつわるうわさ・チクリ情報




女性の国語教師は教え子と駆け落ちしました
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読売新聞 東京朝刊 22頁 1997. 07. 07




[テーマ97]学校論 平出隆さん “こわばり”ほぐれた学びの場に

 ◆教師がテスト課す側を離れ、人間性示せれば
 詩人の平出隆さんは、少年時代、教室がきらいだった。大学で教えるようになった今、あらためてその理由を考えたとき、教室そのものがきらいだったのではなく、教室の空気のこわばりが耐え難かったのではないかと思い返された。自然体で学生に接し、やわらかな場を創出することを心がけているという。
 学校やテストがきらいだったのはなぜですか。
 「教室の机の並び方がいやだったんでしょう。教壇があって、生徒がそちらを向いて窮屈に並んでいるという。最近、学生が教室を替えてくれと言ってきて、広い教室から狭いゼミ室へ移った。すると、空気ばかりかこちらの話も変わったんですね。場とか座というものの微妙さを実感しました」
 「テストの光景は、教師の側になった今もなるべく見たくないんです。自分から挑戦するテストならいいけれど、なぜ受けるのかわからないままのテストは心の健康によくないでしょう。そのダメージはくり返されると、意外に大きいと思います。人が人を試すという圧迫感は、小さな子供にはとくにきついんじゃないでしょうか」
 大学の授業ではテストをしないのですか。
 「考えもしませんね。十分な問答ができれば評価はできます。テストだけのほうが間違うことが多い。授業ではぼくとのやりとりが、学生自身が選んだ試練であるようにしています」
 先生と生徒の関係についてはどう思われますか。
 「ぼくは中学時代に何人もいい先生に出会えました。教師として教えてくださった内容ももちろん、その先生方の身のこなし、ちょっとした表情、ふるまいなど、全人格的な印象が、ぼくの中に強く残っています。教師も子供の目からテストされていて、そこで不合格になっている教師もいるはずです。自分はテストする側とだけ考えると、教師は役割だけの存在になってしまいます」
 「ある美術の先生は、教職をなげうち、画家として上京しました。ぼくが詩に関心を持つきっかけをくださった女性の国語教師は教え子と駆け落ちしました。でも、その知らせがうれしかった。先生の人間的な部分こそが、弱さも含めてぼくには魅力だったんです」
 先生が全人格的な姿を見せるには、どうしたらいいのでしょう。
 「自然体で自分を開いて、自分も学びつづけている者だと示すことだと思います。教える力には限界がありますが、学ぶ力は無尽蔵。それに気づかない学生には、思いがけない、こちらの内側が見えるような言葉をかけるようにしています。授業とは関係ないことで、たとえば『この筆箱いいね』と。驚いたとたんにたがいの内側が見える。でも、これは本当にその筆箱に関心があるのでないとだめ。気を引くためにかけた言葉では無理ですよ」
 「ぼくは毎年学生と『奥の細道』を訪ねる旅行をしていますが、遠方から続けて参加してくる卒業生が何人かいます。学校という枠をこえて、やわらかな学びの場を求めているのだと感じます。四十代になっての同窓会も、かつての教室空間の変形かもしれませんね。あのころのこわばりのほぐれた、ありうべかりし教室を求めて、みんな集ってくるのではないでしょうか。ほんとうの勉強というのは、なかなか終わりが来ませんからね」
(聞き手・文化部 小屋敷晶子)

 ◇ひらいで・たかし 詩人、多摩美術大助教授。1950年、福岡県生まれ。一橋大社会学部卒。詩集に「胡桃の戦意のために」「家の緑閃光」など。草野球選手としても知られ、野球論「ベースボールの詩学」「白球礼讃」もある。



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